白梅学園大学
白梅学園短期大学
お知らせ
2021年1月28日 10:05
特集 「児童憲章」七〇年の年を迎えて
新春対談 近藤幹生(白梅学園大学・短期大学学長)&増山均(日本子どもを守る会会長)
「児童憲章制定七〇周年を迎えて―子ども守る運動の新たな展望」
司会 明けましておめでとうございます。今年は児童憲章が制定(一九五一年五月五日)されて七〇年の節目の年になります。また、来年は日本子どもを守る会の創立七〇年を迎えます。この記念すべき年を迎えて、私どもの「子どものしあわせ」誌では児童憲章を一年間とりあげ、あらためて児童憲章をしっかりと学ぶ機会にしたいと考えております。子どもを守る会は現在、役員も会員もずいぶん高齢化してきております。この連載企画を通して、児童憲章をはじめ子どもを守る会の活動を何としても若い世代に伝えていきたい、そんな願いから今回の対談を企画させていただきました。近藤先生は保育学、増山先生は教育学がご専門でいらっしゃいますが、それぞれのお立場から、今日は児童憲章の意義と課題をあらためて確認し、それをどう若い世代に伝えてゆくか、そうしたことをテーマに自由闊達にお話し合いいただけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
若い世代に伝えたい―同時代を生きた「児童憲章の子」として
増山 児童憲章は、今も生きている重要な文書なのですが、最近はあまり語られていません。子どもの権利にかかわる運動をしている人たちも、「憲法・子どもの権利条約に基づいて」とは言うのですが、児童憲章を抜かしてしまっているんですね。そんなこともあって、改めて児童憲章の中身と歴史的意味をとらえ直し、「児童憲章を運動の課題から落としてはならないのだ」ということを、ぜひとも本誌で継続的に取り上げていきたいと思っています。
私は、自分たちの世代を「児童憲章の子」と名付けたいと思っているんです。近藤先生は一九五三年生まれ、私は一九四八年生まれですから、ほとんど同じ世代で、「児童憲章の子」として生まれ育ってきたと思います。戦後世代がこれまで戦争のないしあわせな時代を過ごせてきたのはまさに、憲法と児童憲章があったればこそだと思うわけです。同年代を生きてきた二人の対談で、若い世代に児童憲章の意義を伝えられたらいいですね。
近藤 私は、一九五三年生まれ(昭和二八年)。児童憲章は一九五一年に制定されました。調べてみまして、一九五二年に日本子どもを守る会がすぐ発足していることに驚きました。児童憲章には大事な中身がつまっていますね。私が生まれ育ったのは東京の多摩地域です。子どもの頃は遊び惚けた生活をしていました。大人になってからは、初めに保育園の仕事につきました。一九七八(昭和五三)年山梨、長野で保育の仕事をしてきました。長野県で私立保育園の園長をした頃、年一回保育者が集まることがありましたが、そうした時には、初めに児童憲章を読むんです。いわば読み合わせの学習です。保育関係者にとって大事な文化だと思いました。今、改めて思うことは児童憲章が私の保育(実践・運営・研究)の原点です。冒頭に出てくる「児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、良い環境の中で育てられる。」は、この国に生まれた子どもたちにとっては、きわめてあたりまえのことなのですが、それが今はどうなっているんでしょう。軽んじられているのではないかと思いますね。
五〇年、六〇年代の私たちは、子どもの頃は好きなだけ遊びました(近藤『保育とは何か』に具体的に書きました)。異年齢のガキ大将がいたりして、その中でもまれて遊んだ時代です。学校から戻ると、親に十円玉をもらって、紙芝居屋さんのところに駆けつけ、水あめを舐めながら見る。山や川で育った子ども時代でした。そうやって遊んだ経験が土台になっているのかなと思います。
その後よく話題にのぼることは、「子どもが遊べない」、「遊ばなくなった」ということですね。あの時代の子どもが体験したことは、どんな意味があったのだろう。子どもの権利条約31条で、好きなだけぶらぶらしていいんだ、のんびりしていいんだといっている(増山先生の研究で指摘されている)。まさに、あの時代の我々の子ども時代のことを表現しているようで、その意味を深めなくてはいけないと思っています。
増山 私たちは、同じ時代を共有してきた「児童憲章の子」と特徴づけましたが、実はもう一つ、重要な特徴があります。私は、それを「戦争増児」と名づけました。日本の子どもたちの悲劇として、「戦争孤児」という言葉がありますね。NHKの朝の連ドラ「エール」にも戦争孤児が出てきていましたが、戦地に行った父親や若者が復員してきて、待ち焦がれていた母親、女性との間に大量に生みだされた子どもたち、戦争の歪みを引きずって生まれた子、それが「戦争増児」です。その世代は「団塊の世代」といわれてきまして、昭和二二年、二三年、二四年生まれですが、年間二六〇数万人も生まれた世代なのですね。現在の出生数は年間八六万人、毎年減り続け少子化が進んでいます。戦争による年齢構成のアンバランスが、いまも日本社会を底流で動かしていると思うのですが、年金の高負担や高齢者介護の困難・ヤングケアラーの問題なども、戦争がもたらした後遺症です。
一方では、希望の中で生まれた「児童憲章の子」、しかし一方では、悲劇の後に生まれた「戦争増児」、そうした特徴を刻印された特徴をもつ世代が我々なのです。
まがりなりにも七〇代まで生きてこられたのは、憲法があり児童憲章の力があってのことです。そのことを改めて我々もかみしめたいし、次の世代にきちんと伝えたいと思いますね。
私自身の児童憲章との出会いを振り返ってみますと、一九六七年、大学に入った年でした。ちょうど美濃部革新都政ができた年ですから鮮明におぼえています。街の中には胸に青空バッチをつけている人がいっぱいいましたね。大学入学後、学生セツルメントというサークルに入ったのですが、その部室に「子ども白書」が並べられていました。開いてみますとどの白書にも表紙の裏に児童憲章が収録されていました。このとき初めて児童憲章というものがあるのを知ったわけです。「われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、・・・この憲章を定める。」その後ろに、いま近藤先生にご紹介いただいた三項目が続きます。とても感動的な文章でした。それ以後、私は直接・間接に児童憲章にかかわってきまして、いま「日本子どもを守る会」の会長をさせていただいています。私にとっては児童憲章が人生の土台になっていると言っても過言ではありません。ですから、若い世代に、この憲章がつくられたときの社会の気運と初心とを、自らが学び直しつつ伝えたいと思っています。
ところが今、「学術会議の問題」「核兵器禁止条約の批准問題」など、国会での政府の答弁を見ても、歴史を忘れ去った議論がされているわけで、まことに情けない。「安全保障と平和」「学問の自由」についてもそうですし、憲法、児童憲章に盛り込まれている高い理想が忘れ去られています。もう一度きちんと光をあてて児童憲章の意義を伝えたいと思いますね。
近藤 六〇年代の革新都政の時代、私は高校生でした。高校生からみても、先生たちは、生き生きとしていましたね。暮らしや社会の問題を訴え、街頭で演説して、先生ってすごいなあと感じましたね。六〇年代、七〇年代の学校の先生は、子どもといっしょに遊んでいるんです。いつも放課後は子どもと野球をしたりね。私の子ども時代は、多摩ですから、うさぎ追いがあって、先生といっしょに山に行って、低学年は棒をもって下から追いかけていく。高学年は、上でうさぎを待っている。先生たちは、「ふるさと」をハーモニカで演奏してくれて歌ってくれる。歌を聞いて、子どもたちは、うさぎを追って食べるのかと思いましたが(笑い)。先生たちは自由でしたね。子どもからみても先生の自由は守られていました。そういう時代でしたね。いま保育関係で心配なことの一つは、「国旗・国歌に親しむ」と二〇一八年から保育所保育指針・幼稚園教育要領に記述されたことです。大人社会で見解の別れる内容が「親しむ」と、書かれました(近藤『保育の自由』に詳しい経過を書きました)。これから問題になってくる可能性があると思います。学校の先生たちが国旗・国歌のことで処分されていますが、その流れが、就学前まできているのです。どういう保育・幼児教育をするのか、保育する自由が、うばわれてしまうのではないか。子どもたちを規則で縛りながら静かにさせるために、どう幼児期をおくらせるのかが中心になってしまう。一歩まちがうと、とても心配ですね。さらに、日本学術会議への政権の動きは、学問の自由、教育・研究の自由など、真理を探究する大学のあり方が問われることとして、注視しなければなりません。
増山 保育の自由、教育の自由、言論の自由、表現自由といったものが無視され、自由が抑圧される方向で進んでいると思うのです。ですから、戦争への深い反省と戦後社会の民主化の中でつくられた憲法、教育基本法、児童福祉法、子どもの権利を守るそれら一連の法律の集大成として児童憲章がつくられたわけですが、当時の政府と国民が子どもの未来にかけた大きな期待と、児童憲章に込められた理念・理想を確認することがどうしても必要だと思います。
児童憲章ができるまで―憲法・児童憲章・子どもの権利条約への流れ
増山 日本子どもを守る会は、児童憲章制定二五周年(一九七六年)の時に『児童憲章読本』を、子どもを守る会の五〇周年(二〇〇二年)には、『花には太陽を子どもには平和を』(新評論社)という本を出版し、児童憲章の歴史的価値とその意義をまとめています。これらの本の中に詳しく書かれていますが、児童憲章ができた時の記録を大事にしたいですね。
『児童憲章読本』には、児童憲章の制定過程に委員として深くかかわり、のちに日本子どもを守る会の発足と同時に副会長をされた神崎清さん(ジャーナリスト)が、児童憲章ができるまでの困難や問題点についても率直に書いています。戦後の憲法ができ、そして教育基本法、児童福祉法と一連の子どもの権利についての法律ができていくその大きな流れの中で総合的な子ども観を示すものをつくろうと児童憲章の立案が開始されたのですが、すぐに頓挫するんです。神崎清さんの証言によると文部省が足を引っ張ったからです。子どもの教育の支配権に固執した文部省が、子どもの教育は我々のしごとであり、審議されているものは教育の位置づけが弱い「児童福祉憲章」だというわけで、そして流れが止まってしまったんです。その後、最高裁長官の調停などがあって、また動き出したのですが、そのときに文部省への妥協案として教育条項を増やそうとした。確かに児童憲章は全体をみても、わずか一二項目しかないなのに「教育」ということばが、なぜ何度も出てくるのかという謎も解けます。児童憲章の制定過程を学ぶと、児童憲章には、その当時の縦割り行政の矛盾や省庁の力関係が反映していることも分かります。
司会 なるほど、そういう歴史があったのですか。もう少し児童憲章の誕生の背景について知りたいですね。
増山 この本はなかなか手に入らないものですが、児童憲章の制定過程のやりとりをまとめた『児童憲章制定記録』を持ってきました。これは、厚生省児童局が出した貴重なものです。まとめ役は金森徳次郎委員長(内閣法制局局長)で、各界・各省庁の委員のさまざまな発言と児童憲章が成文化されるまでのやりとりが記録されています。一九五一年五月五日の記念式典には、時の内閣総理大臣吉田茂、衆参両院の議長、最高裁判所長官、さらにはGHQ(連合国総司令部)やCIE(民間情報教育局)の長官が挨拶し、メッセージを寄せています。国家の中枢の人たちが児童憲章について口々にその意義を語っています。「新しい児童観を確立していきましょう。児童憲章を広めましょう。児童憲章を活用しましょう」と強調しています。衆議院議長は、児童憲章を絵にかいたもちにしないために、きちんとした行政部局を作り、財政措置をつけなければならないと言っている。これらの記録をあらためて読むと、児童憲章がいかに社会の大きなうねりの中で、官民が一体となり、子ども・子育ての未来への大きな期待をこめてつくりあげたかがわかるのですね。
吉田首相のあいさつは教訓的です。「児童憲章は、おとな自身の道義的約束であり、一の社会的協約であり、我が国の次代を担う子どもの人間としての品位と権利を尊重し」と言っている。子どもの権利だけでなく、子どもの品位を尊重することの大切さを語っていたのですね。子どもは一人の人間であり、品位をもった人間として尊重すること、「児童は、人として尊ばれる」の一言に込められた意味をかみしめ、しっかりと学びなおしておきたいと思うのです。
近藤 先生のお話をきいて、子どもの権利を深めて考えたいです。日本の歴史や文化には一人ひとりを大事にする思想がたくさん入っていると思いますね。私は保育者になってから、長野県幼年教育の会に出会い、口頭詩の採集運動を知りました。戦前からの生活綴り方教育に影響を受けた取り組みです。まだ文字を書けないが乳幼児のことばを大事にしていく、子どもの願いをどう聞くかを大事にする教育に出会ったのです。今ふりかえりますと私の保育実践は失敗の連続でしたが、はっとすることばに気づかされました。
ある時、昼寝中の保育をしていたとき、一人の女の子が、「せんせい、はな!」というのです。私は「はなは、じぶんでかめるでしょ」と言ったまま後ろをむいて連絡帳を書いていたんです。でも、その子は、ロッカーの上の花瓶と花が下に落ちて、床がびしょびしょになってしまったことを言いたかったのに「鼻ぐらい自分でかみなさい」と言ってしまった。うしろをむいたら子どもは泣いていて、床はびしょびしょでした。花が落ちているのを教えたのに、と。それを訴えていたのです。私が子どものことばを大事にせねばと最初に考えた事件でした。子ども一人ひとりのことばや願いをどうとらえるかは、子どもの権利をとらえていくことに、それは児童憲章の理念につながっていたのかと思いますね。
児童憲章を見落としてはならない
増山 一九八九年に、国連で「子どもの権利条約」がつくられて以降、子ども観についてはこの権利条約が大きく取り上げられ、民主的な運動団体も憲法とつないで子どもの権利条約の意義をつよく訴えています。それはその通りなのですが、私には少し違和感があります。その中に児童憲章が抜けているからです。「憲法・児童憲章、子どもの権利条約」としないと、戦後の新しい子ども観をめぐる重要な歴史過程を見失ってしまうと思うからです。近藤先生が生活綴方や、口頭詩に注目することの大切さを語られましたが、子どもの声を拾い上げ、大切にする視点は、子どもの権利条約に意見表明権が書き込まれていたところから始まるのではなく、戦前・戦後の民主的な教育の遺産や伝統を受けて、すでに児童憲章の子ども観の中に集約されていたのです。そこにきちんと光を当てたうえで、子どもの権利条約の理念と規定とを結びつけていくことが重要だと思うのです。
児童憲章は一二項目の短いものですが、そこには権利条約の規定にはないものがあると私は思っています。国連子どもの権利条約は、子どもの主体性を重視しているのに、児童憲章は「児童は、人として尊ばれる」のように、子どもが受け身的に書かれています。だから子どもの権利条約の子ども観の方が発展的であり、児童憲章は古いというとらえ方があるようですが、そもそも、誰に向けて憲章と条約がつくられたのかという点において、主たるターゲットが違うのです。児童憲章は、子どもに対しては君たちは社会の中で尊重されているのだよということを知らせつつ、主に子どもを取り巻く大人と社会に向けてつくられたものであり、子どもの権利条約は、大人と社会に対してと同時に、むしろ子ども自身に向けて、直接その権利の行使のあり方を提起しているのです。
子どもの権利条約が出来てからのちは、児童憲章の内容はそれに包含されているのだから、児童憲章を特別に位置づけなくても、権利条約で尽きていると考えている人もいるようですが、実はそうではなく、児童憲章にしかないものがあり、中身としてそれを見直さなければ重要なものを見逃してしまうのではないかというのが私の見解です。第一二項目の「すべての児童は愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するようにみちびかれる」という子育ての目標は分かり易いですね。子どもの権利条約も、しっかり読み込んでいけば、この目標に繋がるのですが、児童憲章の子育て・子育ちの目標は、冒頭の法三章とともに明解であり、子どもの権利条約で尽きるということではないと思えるのです。
近藤 私も児童憲章にある「すべての児童は、愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するようにみちびかれる」(第一二項)を読んで思ったことがあります。学生時代から一番影響を受けたのは渡辺義晴先生(哲学者、元信州大学教授・一九一一~一九九八)です。先生は、「保育は、子どものことばを大事にしなければ。子どもや、汗して働く親たちに学ばなければと…」と。その時はよくわからなかったのですが、子どもの声を聞かなければと、記録をとっていく中でわかってくるのです。子どもの声を聞くことの大切さ、親たちの生活や暮らしにも目を向けることを教えてくれたと思います。渡辺先生は人間へのあふれる関心をもつことを、強調されました(一九八〇年、全国保育問題研究会松本大会で実行委員長をされました)。
増山 今の先生のお話から、子どもを優しいまなざしでとらえ、子どもを尊重し尊敬していることがわかりました。子どもを人として尊重する、尊敬するまなざしでかかわっているからこそ、子どものことばやしぐさにもていねいに目を向けていくことができるのでしょう。ところがいま、子どもをとらえるまなざしがどんどん冷たくなっている。そうした時だからこそ、児童憲章がつくられた時代の初心に立ち戻って考え直さねばならないと思うのです。
七〇年前に制定された児童憲章は、制定当時それを広く国民に普及するために、直後に「厚生省の通達」二九六号(一九五一年六月二日)が出されています。それを読むと、上からのお祭り騒ぎに終わらせないで、下から盛り上げていくために、学校教育の中で特に社会科の中できちんと教えよう、母子手帳にも収録しよう、児童憲章の歌をつくろうなど、いろいろな工夫が行われました。ポスターやカレンダーを作ろう、タバコやキャラメルの箱に児童憲章を印刷しようなど、さまざまな案が提案されています。「母子健康手帳」への収録は今でも続けられていますね。日本の子どもたちは、じつは今も全員が生まれるときから児童憲章に結び付けられているのです。身長体重の記録や予防接種のところだけを見て、児童憲章そのものが読まれていないのが残念なのですが。
児童憲章は「逆コース」の開始により制定と同時に骨抜きにされた
増山 児童憲章ができて、いよいよ官民一体となって大々的に普及していこうとした、ちょうど同じその時に朝鮮戦争が勃発してアメリカの対日占領政策が変わり、民主化の動きにストップがかかり、日本の再軍備が始まりました。いわゆる「逆コース」の始まりですね。日本政府はアメリカに従属し、戦後民主主義の流れのもとで憲法・児童憲章に結実した変革への気運と成果が骨抜きになってしまったのです。そこで翌年(一九五二年五月)に、「日本子どもを守る会」が結成され、政府が投げ捨てた児童憲章の完全実施の課題を高く掲げて、子どもを守る運動を開始したのです。そこに日本子どもを守る会の原点があり、この原点をきちんと確かめることが重要だと思っています。
近藤 子どもの尊重ということについては、子どもの権利条約から、意見表明権などを大切にとしてきましたが、児童憲章にさかのぼると、大事なことがみえてきますね。ていねいにみなおしていくとかなりちがってくると思います。
増山 そうですね。若い方は、子どもの権利条約からはいるのですが、児童憲章はその三八年も前から取り組んできたのです。第二次世界大戦の悲劇への深い反省を経て、湧き出た子どもを人間として尊重する思想が、日本では児童憲章に結晶し、国際的には国連子どもの権利条約へと結実したわけで、平和と人権を尊重する思想は同じルーツにあるのです。児童憲章には子どもの権利を重視する視点と共に、子どもの品位と人格の尊重、子どもを人間として尊重し、子どもから学ぶという深い思想が表現されていると思います。それを改めて再確認することを呼びかけていきたい。
近藤 八〇年代から九〇年代ですが、私が長野で保育現場にいたころ、子どもの権利条約は、保育園には関係ないだろうと思っていました。保育園児は、まだ文字を書いて意見を表明できるわけないし、小中学校以上の問題だと思っていました。九〇年代以降になって、子どもの権利条約は、実は〇歳児からの願いを考えなければとわかって、新鮮に思ったんです。これも最近ですが、子どもの権利条約の精神は二〇一六年にようやく児童福祉法第一条に書かれました。保育関係者は、これまでニュージーランド、イタリアなど、諸外国からもさまざまな保育・幼児教育思想を学んできました。でも、子どもを尊重する思想は日本にも脈々とあるんだということが、はっきりしてくるんです。子どもの願いをきく重要性があることなどを児童憲章から、もっと解き明かされていくとうれしいです。保育園、幼稚園も、子どもの願いをきく、子どもへの尊重(品格などということも)をほりさげていくように、整理されていくとおもしろいと思います。
増山 確かに児童福祉法が改正されて、第一条に子どもの権利条約がしっかりと位置付けられました。学童保育の運営指針にも子どもの権利条約が位置づけられています。しかし教育の分野では、多様な学びを保障する「教育機会確保法」のみで、その他の教育関係の法律には、教育基本法にも学校教育法にも子どもの権利条約は位置づけられていません。福祉の分野と違い、教育の分野は子どもの権利保障の国際的潮流と逆行しています。昨年一二月に開催された子どもを守る文化会議(一二月五日)の記念講演で前川喜平さんに「子どもの権利条約がなぜ学校教育の中に入らないのか」を話していただきました。文科省をはじめ日本の学校は、伝統的に、子どもを「権利者」としては見てこなかったということを話されました。保育の現場では児童憲章が大切にされ、児童福祉の分野には、子どもの権利条約が入っています。その際、子どもの権利条約の普及とともに、日本独自の取り組みとしての児童憲章の精神と結合させていくことが大事だと思います。
児童憲章は、いまも身近にあるのです。若い人は自分の「母子健康手帳」を、この機会に見てください。自分が誕生した時に、お母さんやお父さんが我が子の成長の記録を丹念に書いてくれていたことを読んで感動すると思いますよ。その母子健康手帳の中に児童憲章がきちんと収録されていることに、重要な歴史的背景があったことを知るでしょう。近年、母親だけでなくイクメンにむけて、全国の自治体が「父子手帳」などを発行していますが、そこに児童憲章が入っていないんですね。子どもの権利条約はまだどちらにも入っていない。世田谷区の母子健康手帳に子どもの権利条約が紹介されるようになりましたが、「自治体が発行する子育て関係の手帳や冊子に、児童憲章と子どもの権利条約を収録しよう」というキャンペーンをやらなければいけないと思います。そうしたことを含めて児童憲章をアピールしたいと思っています。
近藤 保育や子育てで思うのは、もっとのんびり、ゆっくり、育っていく、支えあっていける、こうしたメッセージこそ大事だということです。保育園に長くいる子どもたちの側に立って考えていきたいと思います(だらだらとする、ぶらぶらする、すきなことをする、ことが大切)。保育者がそういう目をもって、乳幼児期の遊びの意味を、考えてみなければと思うのです。子どもの姿は、とてもおもしろいな、ということを発見していく現場、そして子どものことを話し合える時間が大切ですね。職員集団では失敗したりしたことを話したり、保育をふりかえったり、親ともゆっくり話したり、大人のあり方が問われていると思います。こうしたプロセスも、「保育の自由」という考え方だと思います。
増山 保育・幼児教育の現場も学校教育の現場のように、競争主義的になってきているのではないかと思いますが、学校に入るまでにこうしたカをつける必要があるなどと焦らせる必要はない。ゆとりをもって子どもの育ちをみていきたい。その意味で今、保育・幼児教育界も心配な状況が出て来ているのではないでしょうか。
近藤 二〇一八年の保育所保育指針・幼稚園教育要領の改訂では、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」(一〇の姿)が、はじめて示されました。「到達目標ではない」のですが、すべて到達する姿にあてはめようとしてしまう実践もあり心配です。子ども、そして、保育者自身が、保育を自由に、展開できることが大切な課題でしょうね。
増山 私たちは「児童憲章の子」としてのびのび育てられてきましたが、いま子どもに向き合う親自身の姿がかわってきた、親のまなざしが変わってきたことに出会います。親たちが企画した夏休みの取り組みで、ザリガニ釣りをした時のことを耳にしました。「どうせやるならば、釣れた数を数えたり、重さをはかって賞を出した方が盛り上がる」とある親が言い出す。何かおかしいと違和感を感じた親もいるのですが、多くの親が競争や表彰に賛成して、いつの間にか遊びまでが競争の場にしてしまう。親自身の子ども観・子育て観に潜む問題もよくみていかなければならないと思います
近藤 憲法・児童憲章まで、戦前・戦後の歴史も、若い方々に思いっきって伝えていかねばならないと思うんです。『あの日のオルガン』(久保つぎ子著・太平洋戦争末期、日本で初めて保育園を疎開させることに挑んだ保母たちの実話、朝日新聞出版、二〇一七年映画化)の本を読んで学生がびっくりするのです。疎開をどうやったのか、どうやって食べさせたのか、親とどう離したのかなどと。戦時託児所は最後まで閉鎖されませんでした。そうした歴史を伝えていく責任を感じています。
増山 日本子どもを守る会では、創立以来児童憲章を普及する仕事に取り組んで来ました。羽仁さん(羽仁説子・第二代会長)の時代には、本誌『子どものしあわせ』は二〇万部も読まれていたということです。「親と教師を結ぶ本」として、職員室に山のように積み上げられて並んでいたという夢のような時代があったんですね。私は会長の仕事としては、これから「古民家再生」をしなければならないと思っています。日本子どもを守る会は、七〇年の月日を経て、建物が老朽化し、そこに住む住人も年老いてきましたが、実は一見古そうに見える建物でも、梁や柱は実に立派なものです。磨いていくと、「児童憲章」という立派な大黒柱が立っている。敷地内には貴重な蔵がいくつもある。長田新の蔵、羽仁説子の蔵、その隣には大田堯の蔵というように先人たちが遺した貴重な財産が眠っています。豊かな子育てと平和な社会の建設に向けての大切な財産が詰まっているのです。それらを丹念に紐解いて、新たなメッセージを発信していかねばならないなと思っているところです。
近藤 大田先生の教育学―子どもに対する考えは大事ですね。教育のもつ意味として「持ち味を引き出し合う」ことなど、最近も「『はらペこあおむし』と学習権」(大田堯著、一ツ橋書房)を白梅の大学院生と学び、議論しました。次の世代にも、そうした内容を丁寧に伝えていきたいです。
増山 日本子どもを守る会は運動体ですから、史料を研究整理していくことはなかなかできにくいのですが、運動の役割は大きい。さまざまな社会問題にも対応していきたいと思ってます。しかし一方で、蔵に詰まっている財産を紐解き、活用・発信していきたいと思っています。ぜひ各地の大学のゼミナールとジョイントして、貴重な蔵に眠っているものを一緒に学んでいく場所をつくっていきたい。学生や院生の皆さんと共同の学びの場がつくれるといいなあと思うのですが。白梅学園大学でも、ぜひご協力ください。
コロナ禍の子どもたちと若い世代へのメッセージ
司会 まもなく丸一年になろうとしておりますが、このコロナ禍の中で私たちの生活から様々な自由がうばわれてしまっています。特に子どもたちにも大きな影響が及ぼされていると思いますが、最後にそのことについてのお二人のご意見をお伺いしたいと思います。いかがでしょうか。まず近藤先生から。
近藤 とにかく、子どもに何の相談もなく、二〇二〇年三月、六年生の卒業式がなくなってしまった。これを子どもたちはどう思ったのだろうと、このことがずっとひっかかっています。
増山 子どもを守る会では声明を出しました。何が大事かについて八項目挙げましたが、その第一に子どもたちにきちんと説明すること、そして子どもの声を聞くこと。子どもの意見を聞いて、一緒にどうすればいいか考えることを訴えました。子どもにとって一番いいことを、子どもと一緒に考えて取り組むこと、それはコロナ禍であろうが、なかろうが、取り組みの基本なのだと思いますね。
近藤 まわりの大人社会がどう支援するかですね。相手の立場を考えたり、最前線で働いている人、専門職の立場を想像できたり、誰かを責めるのではなく、そうした想像力を大事にし、誠実に生きることだと思います。このことを繰り返し考え合おうと学生にも話してきました。
増山 とりくみにおいては、想像力が大事なキーワードだと思いますね。子どもの権利委員会の乳幼児期の子どもの権利に関するジェネラルコメント(一般的意見)の中に、子どもの声を聴くには想像力が大事であること、大人が忍耐力を持っていないと子どもの声は聞くことはできないといっています。想像力と忍耐力、このことがコロナ禍の今こそ大事な点だと思います。
近藤 子どもの発達には、いろいろな姿があるのです。たとえば、二~三歳の頃の基本的生活習慣の自立の課題に排泄の自立がありますが、失敗しながら、できるようになります。その子なりの速度があるんです。大人の側はそれを待ってあげる。人と人との関わりの大事さを確認したいです。心身を使った遊びや生活を楽しめる創意工夫も必要になります。
増山 ディスタンスをとり「3密」を避けてのオンラインの授業、デジタル文化の普及が加速されていますが、生身の人間同士のコミュニケーションの重要性を見失なわないようにしたいですね。我慢することよりも工夫して実現すること、締めないことに希望を見出したいものです。
司会 新年を迎え、若い世代にメッセージをお願いします。
近藤 七〇年となる児童憲章への学びをきっかけとして、歴史を探究したいです。また、一〇代の若い方々が多くかかわり、被爆者と共に声を出して、世界や国連へ働きかけてきた、核兵器禁止条約が二〇二一年一月二二日にスタートします。すごいパワーだ、と心うたれました。さらに、若い方々が、保育者(保育士・幼稚園教諭)をめざして、歴史や未来への学びを深められるように、努力していきたいと思います。乳幼児から大人まで、学び合いながら、反戦・平和、民主主義のあり方を考えていきたいです。『子どものしあわせ』誌から、幅広い角度からの発信をお願いしたいです。
増山 学びあい・育ちあう。若い世代と高齢者が共に学びあう。世代を超えて学びあう。そういう場所をつくり広めていきたい。高齢世代が経験してきたこと、若い世代が獲得しているものを相互に学びあい、世代間ギャップを埋めて、新しい未来に向かうことが絶対に必要だと思います。「児童憲章」の学び合いがそのきっかけになるといいですね。
司会 まだまだお話は尽きないと思いますが、このあたりで終了させていただきたいと思います。お二人のお話に思わず私も聞き入ってしまって、司会の仕事を忘れてしまったようです。たいへん申し訳ございませんでした。お二人のますますのご活躍を期待いたしながら、本日の対談を終了させていただきます。長時間、本当にありがとうございました。
(収録二〇二〇年一一月六日 白梅学園大学にて)
『子どものしあわせ』(2021年1月号 No.839) 編集・発行 日本子どもを守る会